他人が決めた正しさよりも、自分で選ぶ自分らしさを大切にする

まず私が違和感を感じたのは、学生時代ですね。
「靴下は白じゃなきゃダメ」「前髪は眉にかからないように」「スカートが短い」
当たり前に言われるこれらの注意を受けるたびに、私は「ちゃんとする」ことに必死になっていたと思います。
「これはこうするもの」「あれはそうあるべき」
提出物の字が丸いと怒られ、推薦文はそれっぽい言葉を選ばされる。進路の希望理由に「社会に貢献したい」と書くけど、本当はよくわからない。
でも、そうしておけば評価されて通過できる。だから何も疑わずにそうしていた。
正しさに寄りかかっているうちに、私は「自分がどう感じているか」を置き去りにしていた気がします。
大人になれば、「結婚はするのが普通」「仕事はお金を稼ぐためのもの」「優しさはマニュアルに沿って提供するもの」
いつからかそんな“当たり前”のような言葉に、私は息苦しさを感じるようになっていました。
形だけが残り、そこに込められていたはずの意味は、いつの間にかどこかへいってしまったんだと思います。
それでも私たちはその“正しさ”に沿って行動することが、無難で評価される生き方だと信じています。
気がつけば意味よりも正しい形式が大事。自分がどう感じるかより、他人からどう見られるか。
そんな社会の空気の中で私自身も「ちゃんとすること」にばかり意識を向けて生きて来たと思います。
私がフィリピンでの留学で気づかされたのは、“正しさ”に縛られなくても、人はちゃんと生きていけるということ。
正直私は、英語を学びたいという気持ちよりも自分の凝り固まった価値観を揺さぶりたかったのかも知れないです..
現地では、文化も言葉も生き方のルールさえも、日本とはだいぶ違います。
授業では10代の高校生から定年退職後の60代までが一緒に学び、年齢なんて関係なく名前で呼び合う。
先生も生徒も対等で、間違えても笑い合って、自由に発言する。
誰も“ちゃんとしてるか”なんて気にしていなくて「今どう感じているか」「何を伝えたいか」が大切にされていると感じました。
そんな空間に身を置くうちに私は少しずつ「ちゃんとしなきゃ」という呪いから解放されていきました。
“正しく”生きようとして自分の感情や違和感にフタをしていたんだなってことに気付かされました。
フィリピンでの日々は、そういった「こうあるべき」から少し離れて、自分の本音を取り戻す練習になったのです。
帰国してからも、日本の社会の中ではまた“型”に戻りそうになることがあります。
でもフィリピンへ行ってからは、あのときの感覚が今も私を支えてくれています。
「まっすぐじゃなくてもいい」「余白があってもいい」そんなふうに思えることが、どれだけ自分を自由にして解放してくれるか。
あの時感じた自由さは、きっと意味のあるものにちゃんと目を向けていたからこそのものだったんだと思います。
誰かが作った“正しさ”に寄り添うことで、安心は得られるかもしれないけど、その安心の中にいると本当の自分を見失ってしまう気がします。
もしかしたら自分にとっての「ちゃんと」は、自分で決めていいものなのかもしれません。