変わらないことの美しさ、変われることの強さ

日本では「一貫性がある人は信頼される」と言われます。

言ったことを守る、筋を通す、最後までやり遂げる。
その安定感に、多くの人が安心するし、周りからも「ちゃんとしている」と評価される。

実際、一貫性には力があります。
たとえば政治家でも経営者でも、発言や行動に一貫性がある人は、ブレていない分、判断軸が明確に見える。
「あの人なら、こう言うだろう」という予測可能性は、社会を効率よく動かすために不可欠な機能でもあると思います。

でもフィリピンで生活していて驚いたのは、その一貫性への執着が、ほとんどないことでした。

語学学校の先生が「明日はこのテキスト使うね」と言った次の日に、別の教材を普通に配ってくる。
ルームメイトが「日曜は絶対行く!」と言っていた旅行も当日には「やっぱ行かない」と気楽にキャンセルされる。
しかも、誰もそれを責めないし、いちいち説明すら求めない。

最初は驚いた、というより正直なところ少しイラッとすることもありました。
でも、そうした出来事が何度も重なるうちに、だんだんと気づきました。
この国では「人は変わるもの」という前提がある。
感情も、気分も、体調も、環境も、日々揺れる。
だから、昨日の言葉と今日の行動が違っていても、それは矛盾ではなく、自然なこととして扱われている。

私自身もかつて恋人に言ったことがあります。
「前と言ってることが違うよね。だから信頼できない」と。
そのときの私は彼が“ブレていること”を責めていました。
でも今になって思うのは、あれは「変化」じゃなくて「不誠実」だと決めつけた、自分の想像力の限界だったんだと思います。

彼が本当は何に迷っていたのか、どんな事情や感情の揺れがあったのか。
そこに目を向けるより前に私は「昨日と違う」という一点だけを根拠に、相手を否定してしまっていたと思います。
でも今なら少しだけ、違うふうに受け止められる気がする。

日本では変化に対して非常に敏感です。
「前と言ってることが違うじゃない」
「そんなこと言う人じゃなかったのに」
SNSでも過去の投稿と今の言動や見た目が違うと、矛盾として吊るされる。

でも考えてみれば、一貫性を守ることにとらわれすぎると、自分をアップデートできなくなる。
「昔こう言ったから」
「一度始めたから」
その枠の中に、自分を閉じ込めてしまいます。

変わらないことで信頼を得てきた人ほど、変わることへの恐怖が強くなる。
そしてその怖さが、人の柔軟さや可能性を削っていくような気がしました。

フィリピンで出会った人たちは「変わること」を怖れていなかったように思います。
むしろ、それが人間として自然なことだと知っているから、誰かが意見を変えたときも「あ、そうなんだ」で終わる。

変わるというのは、迷っているからでも、いい加減だからでもない。
「今の自分」に正直でいようとするからこそ、変わるのだと思う。

もちろん、変わらないことの美しさは、今も信じています。
同じ仕事を何十年も続けてきた人。
ずっと変わらない価値観で生きている人。
そこには確かに、簡単には真似できない誠実さがあると思います。

でも同時に「変わっていける人」もまた、誠実なのだと思う。
環境が変われば、人も変わる。
痛みを知ったから価値観が変わった。
昨日の自分と矛盾する今を、それでも選び取って生きていく。

それは、むしろとても強いことだと思います。

結局のところ、「どちらが正しいか」ではありません。
「変わらずにいる勇気」と「変わっていく柔軟さ」その両方を持っている人が、これからの時代には必要なんだと思っています。

なぜなら、私たちを取り巻く環境そのものが、もう安定していないから。
社会の価値観も、人間関係も、働き方も、常に動いています。
そのなかで生きていくには、状況に応じて「変わること」も選べるし「変わらずに踏ん張ること」もできる人である必要がある。
フィリピンでの生活は「変わることを恐れない」という在り方を、そっと教えてくれました。

私はこれから、変わる自分を受け入れながらも、変わらずに持ち続けたいものも、大事にしていきたいと思います。
信頼とは、整合性だけではなく、その都度ちゃんと向き合い続けようとする姿勢のなかにこそ宿るのだと思うのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次